砂漠/伊坂幸太郎
皆さんこんにちは。
Tokyoより、沙里那です。
今日は仕事も早く終わり、何となく学生時代に好きだった本に没頭しようと、久しぶりにこの本を手に取ってみました。
砂漠(伊坂幸太郎著)
麻雀にちなんだ苗字を持つ5人がそれぞれの大学時代を過ごす。
そんな5人組の、大学4年間の物語。
この本に初めて出合ったのは、私が大学4年生の時。
出逢った当初は、すごく新鮮な気持ちになりましたね~。
大学1年生になったときに読みたかったなあなんて思ったり。
この本で私は本当に西嶋が好きですね~。
彼は、とても素直でまっすぐで、意思を持っていて、それでも伝え方や行動が不器用だから、なかなか周りからは理解されない。
最初は、主人公北村をはじめとして多くの人から理解されない場面が多くありました。
だから彼は最後に「俺は恵まれないことに慣れてますけどね、大学に入って、友達には恵まれましたよ」と言葉を残していきましたね。
この本には、なんてことない(ちょっぴり刺激的なハプニングもあるが)日常をつらつらと書かれている。
それでも、読むと、甘酸っぱい気持ちになり、心が、きゅぅううと締め付けられる気持ちになる。
大学時代は十人十色だが、この本は、多くの人に自分の楽しかった、輝いていた学生時代を思い出させてくれるのかもしれない。
かく言う私も、この本を読み、目の前には無限の可能性が広がっていると思っていた大学時代を思い出した。
まさに「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」なんです。
西嶋のセリフで、
目の前の人間を救えない人が、もっとでかいことで助けられるわけないじゃないですか。歴史なんて糞食らえですよ。目の前の危機を救えばいいじゃないですか。今、目の前で泣いている人を救えない人間がね、明日、世界を救えるわけがないんですよ。
というのがあり、今の自分にチクチクと刺さる言葉を投げかけてくれます。
砂漠を呼んでいると、ああ~、大学時代は良かったな、楽しかったな・・・
と本気で思います。たぶん。読んだ誰しもが、自分の大学時代を回顧し、ある人は自分の大学時代の友人に会いたくなったり、ある人は大学時代の輝かしい栄光を思い出したり。そんな一冊ではないかと思います。
社会人になり、まさに干からびたような毎日を過ごしている自分としては、オアシスのような日々だったんだな。輝いていたなと思いながら読んでいました・・・・
が、
さすが伊坂先生ですね。
最後の最後にくぎを刺しています。
卒業式の校長先生のお言葉。
「学生時代を思い出して懐かしがるのは構わないが、あの時は良かったな、オアシスだったな、と逃げるようなことは絶対に考えるな。そういう人生を送るなよ」
は、はいいっ。。。。。。。
正直、大学時代には気づきませんでしたが、これはある種卒業していく、北村達一行への言葉ではなく、砂漠(社会)へと放り込まれた読者層に対しての言葉なのかもしれない。
大学時代に好きだった本に戻ってきてしまったあたりが、もう、私は今、オアシスだったなと逃げるようなことを考えていたのかもな。
とふと思いました。
ー
四月、働きはじめた僕たちは、「社会」と呼ばれる砂漠の厳しい環境に、予想以上の苦労を強いられる。砂漠はからからに乾いていて、愚痴や嫌悪、諦観や嘆息でまみれ、僕たちはそこで毎日必死にもがき、乗り切り、そして、そのうちその場所にも馴染んでいくに違いない。
ー
確かに、今私が生きている環境は、砂漠である。
予想以上の苦労にであい、毎日がプレッシャーを与えられ、終わらない業務、換算されない長時間労働。狭まっていく未来。将来への不安。
この1年は、オアシスのない砂漠へと放り込まれたようなものだった。
いつかは、この砂漠にもなじんでしまうのかな。オアシスのこと、忘れちゃうのかな。と少し不安だ。
が、
人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである
とあるように(実はこの言葉は、サンテグジュペリの本からの引用の言葉だが)、私には、夢を語る友人や、今別の砂漠環境に置かれながらも必死にもがいている友人が沢山いる。
前を向いて、未来を語れる友人がいる。
この最大の贅沢を味わえているうちは、きっと大丈夫。
そう信じてます。きっとまた、大学時代とは違ったオアシスにたどり着けるはず。
砂漠を久しぶりに読んで、特別な4年間にしか味わえないオアシスを回顧してしまっていた自分に、喝。
という事で、読書日記を記しておきました。
新たなオアシスを求め、明日からまた一歩踏み出していきます。
笑顔と感動を!in 2017:)
新年あけましておめでとうございます。
Tokyoより、Sarinaです。
2016年の申年も、去ることながら・・・(ゴホンゴホン)
2017年の幕開けとなりました~。
2016年は、24年間の人生の中でも多くの経験を積んだ1年間となりました。
ー西ヨーロッパおよび東ヨーロッパでのひとり旅
ー初めての社会人経験
ーITという世界
ーホスピタリティ業界へのしばしのお別れ
ー初の海外出張
などなど。
正直、2015年と比較すると、辛いことや涙することも多くあり、自分とは何かという事を考える時間もなく、とにかく自分を否定することが多くなった1年でもあったと思います。とにかく光陰矢の如し、時間はすぐに過ぎ去ってしまいました。
あんまり普段自分を振り返ることもなく、日常はあわただしく過ぎてしまうので、5年間続けている1月1日に自分の1年の目標を立てる、という事を今年もやろうと重い腰をあげてみました。
>
んなこたああ!わかっている!!!でもしょうがない。人間だし、若いから。まだ悩んじゃうし悶々と悩んじゃうんですよ!!!
2017/1/1
Sarina
人蕩し術/人々の魅力とは。人々を惹きつける力とは。
今回読破し、素敵だなあと思った本はこちら
人蕩し術(ひとたらし術)
女たらしなどの、あの「たらし」です。
実は、この本1万円もする本で、かなり「秘蔵書物」のようなオーラを解き放っております。
会社の方から、おすすめされお貸ししていただきました。
さて、この本は冒頭このように始まります。
「魅は与によって生じ、求によって滅す。」
つまり、与えるものにしか、魅力は生じないと本書は定義するわけです。
では、ものを与えればよいのか。確かに、物や財などを与えることは、その人に魅力を発揮させる最も原型的な例であります。
が、財を与え続けると、自分が貧乏になり、結果人様に迷惑をかけるとなるのです。
人から好かれたい(=求)のために、大切な財を他人に与えつくしてしまうことは、結果他人から厄介になり、切られることに通じると本書は述べております。
では、そもそも「なぜ人は求めてしまうのか」「魅力とはいったい何なのか」「魅力を創る(つまり与える)にはどうしたらよいのか」これらを人間の本能から立ち返って本書は説明してくれます。
- なぜ人は求めるのか。
本書では、人間は5つの本能的衝動にて人々に求めまた与えることが出来ると言っている。
①生存本能
②群居衝動
③自己重要感
④性欲
⑤好奇心
①は、金や食物などの有形で満たされることができ、
②~⑤は笑顔や愛、思いやなど無形なものから満たされるそうです。
さて、人が求める理由。それは
①~⑤において、どこか足りていない状態を指します。
即ち、人々は恐れているのです。
飢えへの恐れ、孤独への恐れ、持てないことへの恐れ、劣等感の恐れ、無知への恐れ。
これらはすべて「自己愛」や「自己肯定」が足りていない状態から生じると考えられます。
だから、人の話を聞かずに自分の話をする(自己主張をすることで人から認められたい)ことや、プライドが高くなったり、高慢(=嫌味)になってしまったりするのです。
これが、求の正体です。
では、魅とは何か。
2.魅力とは一体何か
魅力とは、自己重要感が充足しており、陽気で、自分を愛し、相手を愛することが出来る力であります。
先ほど述べた「求」の状態。これらはすべて、自己卑下や、緊張の弛緩がうまくいかない状態が続いている状態なのです。
つまり、自分大切にし、自分を愛し、今の自分を認めている人こそが、魅力なのです。
魅力のある人は、自分の心に余裕がある。さらに、自分をしっかりと愛してあげている。
だからこそ、自分を愛することと同じように、他人を愛し、他人を大切にし、他人に手を差し伸べてあげることが出来るのです。
つまり、愛心の発動=与なのです。
では、どのようにしたら愛心を発動することが出来るのでしょうか。
3.魅をつくりだすには
方法は3つあります。
①心の緊張(恐怖)の弛緩のスキルを上げる。(中道を歩む。「獲得」「諦め」)
心の緊張は、自然発生的に起きてしまうので、仕方のないもの。だからこそ、弛緩する技術に注目するのです。弛緩をしなければ、人生の悩みは永遠に存続します。では、弛緩をするにはどうしたらよいか。2つ方法があります。「努力と才覚で欲するものを手に入れ、緊張を緩める」そして「到底得難いことを理解し、それをあきらめて緊張を緩める」この2点です。特に2つ目については相当時間が必要となります。自分の心をよく観察することから、弛緩ができると言えます。
「人生においては、まず自己弛緩の技術に長じ、それの達人となることが、幸福な人生創造への必須条件となる」
②自己重要感を自ら充足し、心身を救済する。
プライドが高い人は、求といえます。では、このプライドの高さはどこから来ているのか。答えは「自己重要感の欠乏」です。つまり、プライドが高いものを満たしてあげるには、自己重要感を満たしてあげることが大切なのです。しかし先にも述べた通り、自分が欠乏している状態では、他人に与えることが出来ません。
では、どのように、自己重要感を満たすのか。これには3つ答えがあります。「自分の弱点を補償するために、何らかの才能を磨き、それで世に問うこと。即ち自己表現欲を満たすこと。」「他人に喜びを与えるにはどのようにしたら良いか常に考え、思いやること。」「自己暗示(自分は優れた人間であると3回言う)」のである。
自画自賛は、少し恥ずかしい気もするが、しかし、自分をしっかりと認めて挙げられるのは、自分しかいない。他人に自分を認めてもらうことを求めているうちは、いつまでも自己重要感は得られないといえよう。
自己重要感がある人間は、幸福になれると言える。なぜならば、物の見方がポジティブであるからだ。
「幸福とはものそのものではなく、物の味だ」とあるように、どんなものや状況であろうとも、自分でそれを幸福と思えば、幸福なのだ。
魅力を得るだけではなく、幸せを得るためにも、自己肯定、自己重要感を満たすことは大切であると言える。
③好奇心を持つ。
3日坊主という言葉は日本ではかなり悪い意味で使われているが、それでもいいじゃないか。なんにでも興味を持ち、飽きたら捨てても構わない。なんにでも興味を持ち、試してみる。広く浅くでも良いじゃないか。
人生多事なのだから。
逆に、好奇心や興味を持てなくなる時、人々からは魅力が失われるという。
なぜならば、他人への関心や興味も失せることとなり、結果として人々に耳を傾けなくなる。(つまり、相手の重要感を満たすことが出来なくなる。)
知ることに喜びを感じることは、大前提で、それらを使い、他人へ与えていく。これが大切なことなのだ。
(知るだけだと、ただの自己満足で終了。)
※だから、本を読んで放電しないとダメ、だそう。。。自分に戒め。
4.魅力のある人間
いろいろと書いてきたが、人間には「良」もあれば、必ず「悪」もある。
闇があるからこそ、光があるように。むしろ、闇がなければ光がない。
どんなに魅力のある人間でも「悪」の部分は必ずある。
だからこそ、魅力のある人間=良ではないのだ。
魅力のある人間とは
良い部分も悪い部分も、すべてそれが自分自身であると受け入れ、認め「すべては二元対立である」という分別ができる人のことをいう。
そんな人間を、遊行者と呼ぶ。気負いもなく、自らの生を楽しみ、人々を明るくし、人生を楽しんで生きている人。これが魅力ある人間だ。
とどのつまり。
己に打ち克つ(克己)。
人蕩し(他人を支配)するには、まず己を支配すべし。
あくまで、これは「忍耐」や「我慢」から得られるものではなく
「陽転思考」であることを前提に進めることが重要です。
というのが、今回のこの人たらし術でした~。
己に打ち勝つということは、とても難しい気がしておりました。が!
あくまで陽転思考ですね。自分を認めてあげることは、決して苦しいことではない。
明るく前向きな気持ちで、自分を認めてあげることで、人々に幸せや笑顔、そして心の余裕を与えてあげることが出来るのですね。
私は、今社会人1年目で、なかなか自分の会社に与えることが出来ていないなと感じることが多いのですが。。。
それでも、もしかしたら毎日笑顔で楽しく前向きに生きていることで、誰かに何かを与えるきっかけになっているのかも。。と思いました。
この本を紹介し、進めてくださった会社の先輩にも、とても感謝をしたいと思います。
とても良い本に出逢えました。
SOSの猿/伊坂幸太郎
今回の本は孫悟空×300億円の損害を引き起こした株誤発注事件の調査をするIT品質管理で働く男×引きこもりの男の子を助けようとするエクソシストの模様が描かれている「SOSの猿」(伊坂幸太郎)。
SOSの猿、と題名にもあるように、全体のベースとなっているのは、、、
猿
だ。
まさに、リアリティとファンタジーを融合させた作品である。
「私の話」と「猿の話」で小説は構成されており、途中まではこの二つの話がどのように関係してくるかわからない。まさに、井坂氏お得意のパターンです。
話の始まりは、ひょんなことから引きこもりのカウンセリングを任されてしまう男、遠藤の話から始まる。
他人からのSOSを見過ごすことができず、たまたま身に着けていた悪魔退治の技術を使い、引きこもりを助けようとする。
場面は猿の話へと変わる。
話の始まりは、こうだ。
これから語るのは、因果関係の物語だ。我ら孫行者にしても、天界で暴れたがために五行山に封じ込められた、、、。。
猿の話に登場する、プログラムやシステムの品質管理を調査する男、五十嵐真は株誤発注で起きた300億円損失の事件のミスを追いかけ続ける。
この株誤発注事件はそもそも「1株 50万円で売る」を「50株を1円で売る」と入力ミスしたことが直接的な原因であった。
五十嵐はミスという言葉をこのように語る。
「ミスの原因には2種類あります。『うっかり』と『思い込み』です。」
「いいですか、もしその失敗の原因が担当者の『うっかり』にある場合、どうしてそのうっかりミスを誰も注意できなかったのかを調べる必要があります。」
『うっかりミスには寛大に、規律違反には厳格に』
と。
ここから、「なぜミスをしたのか」の根本となる原因を探りに行きます。
さて、ミスをした男、田中にいきつくわけですが、失敗という言葉から、「恥ずかしさ」そして「恐怖」という2つの言葉を説明してくれます。
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「人は失敗に恐怖するんです。失敗した、と思われることが怖いんです。」
「人間の感情における、恥ずかしさの意義は何でしょう?」
「たとえば、恐怖という感情があります。これは人にとっても、動物にとっても大切な感情でしょう。恐怖を感じるからこそ、注意深くなりますし、危険を回避しようともするわけです。生物が生きながらえるのはその恐怖心があるからこそ、ともいえます。」
〜中略〜
「失敗をしたとき、やってはいけないことをしたときに人は、恥ずかしいとかんじます。」
「二度と繰り返さないような失敗をした時にさえ、人は恥ずかしくなります。自分の失敗に対し、素直に謝罪するどころか、失敗を認めず、激怒し、他人に責任をなすりつけようとする人間も多いわけです。」
「つまり、恥ずかしさは、見放されるという恐れと結びついているのではないでしょうか。失敗をしたことを誰かに気付かれ、自分の能力を低く見積もられる。その結果自分が仲間から見放されるのではなきか、そう恐怖するのかもしれません。」
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相変わらず、こういうフワッとした概念的な部分を、キャラクターを用いて説明するのがうまいなあと浸ってしまいました。
どうして失敗をして恥ずかしいの?なんて、当たり前すぎて考えないのですが、そこへ切り込みを入れて、上手く話に盛り込む伊坂氏、さすがです。
さて、一見すると悪魔払いの話なんて無縁に見える展開ですが、、、この後どのように、悪魔払いの男、遠藤と出逢うのでしょうか。
キーワードは、SARUです。
伊坂ワールド全開の、エンターテイメントと現実世界の融合小説でした。
私はこの物語から、
人間にも、失敗にも、ありとあらゆる事象には善と悪の側面があり、それは、受け取る側によって善にもなりうれば、悪にもなりうるのだ。というテーマを感じたなー。
全部が正しい人間とか、全部が悪い人間とか、そんな人はいないんだなと。
バランスが大切なのだそう。伊坂氏の話は、たいていこのようなテーマで教えてくれる気がするけど。
いつもこのような大事なことを伝えてくれるキャラクターが輝かしくて、だから、辞められないんです。伊坂幸太郎氏の本を読むのは。
しかし、暫く伊坂氏の本は離れて他作家の方々の本を読んでおります。
さて、それからどうなるのか。
次回の回を待たれよ。(お猿風な〆)
コンピューターの歴史/ネットワークの仕組み
今日学んだこと
◎コンピュータの歴史
◎ネットワークの仕組み
◆ホストコンピューター
◆クライアントサーバー
◆IPアドレス
◎コンピュータの歴史とネットワークの進化◎
コンピューターが出現したころは、
↑こんな私たちが知っているパソコンのように、キーボードをたたいて入力するわけではなく
真空管を手動で動かし、2進法に変換した計算式をコンピューターに計算させて、そこから計算結果を得ることが、目的だった。(特に戦時中は、ミサイルの弾道の計算などに使われていた。)
しかも、当時は0101(2進法の数字)とプリントされたものをコンピューターに読み込ませて、その結果を印刷!みたいな時代のようだから、驚き。
だから、今使っているコンピューターの使用用途よりも、ほんとにできることは限られていたのだなぁ。。ただの計算装置だったのかなあ。
それでも、きっと当時の人にとってはものすごく助かるツールだったのだろう。
そんな時代から、ちょっとずつではあるが、できることは増えてきた!
計算するだけではなく、たとえばワープロのように文字が打てたり。
何かのデータ保存したり。
さらには、だんだんとパソコンの数も増えてくる、とな。
そうなってくると、だんだん1台だけで処理(データを保管したり、そこから適切なデータを取り出したり、アプリケーションを起動させたり云々)が大変だ!という風になったのだ。
ホストコンピューターという、すべて1台のサーバーで何とかしよう。としていた時代から新たに進化を遂げ始める。
その時に出てきた新たな考えが、「LAN」を使用した、クライアントサーバーだ。
※LAN=Local Area Network
自分のPC(クライアント)とサーバーをLANで結ぶ。サーバー側に、データベース(RDB=Relationship Database)が用意されている。これがクライアントサーバー、略してクラサバ☆である。
クライアントサーバーにすることにより、処理速度はホストコンピューターに比べ格段に速くなる。
そこから一気に成長を遂げ、ネットワーク(Web)を使用した、Webサーバーなるものが出てきて、3階層C/S(クライアントサーバー)システムが可能となる。
3階層C/Sは、①ブラウザとなるクライアントPCが、何か命令を②Webサーバー(Orアプリサーバー)に飛ばし、そのWebサーバーが必要となるデータを③データベースに対して要求し①のクライアントPCに再び届けることだ。
このウェブサーバを使用したクラサバができるようになったのは、ネットワークができるようになったから。
すなわちインターネットの出現ですな。
インターネットはIPアドレス、というネット上のアドレスがあるから可能になっているとのこと。
住所検索機能によってインターネット世界は成り立っているんじゃないかな。
そして、そんなネットができたから、メールというツールがどんどん役立つようになり、会社で働く人たちのツールは瞬く間にコンピューターに変わっていった。
このクラサバがはやり始めたころは、データセンターブームだったそうな。
このように進化を遂げ、現在はこの②のwebサーバー以上が、クラウド化されている。というのがトレンドだそう。
出ました、クラウド化。最近よく騒がれてるクラウドね。何なのよって、思うんです。ちなみに私はまだよくわかってないです。でもちょっぴり足を踏み込めました、きょう。
例えばですが、
「バーチャルマシン」とか「仮想化」とか、やたらクラウドは「仮想」って言葉が好きだなと思ってたんですよ。
仮想って何だろうって。もやもやとしてたんです。
でも、きょう私の講師に言われたのがこちら
「実質上」
と考えればよいよ。と。(Virtual=実質)
例えば、2005年のノートパソコンを使っていて、2012年ぐらいに、パソコンが壊れたから変えなきゃいけない。
でも、中に入っているOSのWindows2000は使い続けたい。
次買い替えるPCがこのOSに対応しているかわからない・・・
という状況が仮にあったとして
こんな時に役立ってくれるのが、クラウド君なんだそうな。
クラウドがある事により、ハードウェアの互換性を気にすることなく購入することができるとのこと。(無駄な費用や無駄な労力削減!)ちなみに、クラウドが出現したことにより、人々の生活はがらりと変わったそう。
ー教室で話を聞くだけの退屈な授業→見て聞いて話して、体験する学びへ
ー写真は額縁で飾るもの→FaceBookなど、ウェブ上にある自分のアルバム、SNSでシェア
ー書面でのやり取り→タブレットやPC上でのやり取り
確かにここ5年で私を取り巻く環境は変わっている。
それは、ホストコンピューター→クラサバ→クラウド、のように日々成長しているITシステムが関わっているのだな。
ちなみに、まだこのクラウドの知識が浅はか極まりないので、もう少し勉強します。。。
最後に、おまけ。
アプリケーションの仕組みを解説。
☆おすすめランチをメールで教えてくれるアプリ☆
(が仮にあったとしたら)
アプリの裏がわでは、様々なデータベースを所有する。
*身長、体重*好み*SAT*食事履歴
それらをAPIから持ってこれるデータとあわせる。
→一般的なデータ(例えばBMIや、天気など)
これらを組み合わせることにより、個人好みのおすすめランチを提案できるアプリができるわけだ。(たぶん。)
このアプリをより独自性を持たせたいのならば、Iaas使用で、バーチャルマシンを使って構築、運用すべきだし、他の汎用品(テンプレ)を応用して手間をかけず作りたいのならば、Paasの仕組みを使うべきだ。
何はともあれ、コンピューターは進化している。
しかし、人は「進化しているコンピューター」にはあまり気にも留めない。
というか、今ある便利な環境はたいていの人には「当たり前の環境」としてしか受け止められないのであろう。
もちろん私も例外ではなく。
過去を以って便利さを語る、とな。
ま、知れば知るほどはまる世界。なようです。
モダンタイムス(上)(下)/伊坂幸太郎
大学時代になんとなく手に取った伊坂幸太郎の本。
そこからどっぷりはまり、今では前作読破してしまった私。
その中でも特に印象に残り、社会人になり読み返してまたドキドキしてしまった本がこちら。
「モダンタイムス」
「魔王」という本の続編ですね。魔王から50年経った世界が描かれています。
魔王では、ファシズムvs個人が描かれていましたが・・・
この本のテーマは
大きな力(システム)VS個人。
どうすることもできない、強大な仕組み(システム)を相手に、翻弄される主人公の話です。
「実家に忘れてきました。
何を?勇気を。」
こんな文章から始まる、モダンタイムス。
来た来た。伊坂ワールド~!!!と、思わずにはいられない入り方ですね。
さて、主人公が生きる世界は、今から100年後の世界。
システムエンジニアの渡辺のもとにとある会社からの案件が舞い込んでくる。
100年後も、システムエンジニアとか、プログラマーって存在しているのですね~。
ここから一つのキーとなってくるのが「検索」。
あるキーワードを検索した人たちが次々におかしな事件に巻き込まれ・・・
最後には国家単位の強大な力と対峙する、そんな話です。
「政治も経済も、人の気分や善悪も、全部大きなシステムに乗っているだけだ」(モダンタイムス 下)
「お前はシステムを設計するシステムエンジニアだ。それに比べて、世の中を覆うシステムには、システムエンジニアが存在しない。誰が作ったものではないんだよ。独裁者はいない。ただ、いつの間にか出来上がったんだ」(モダンタイムス 下)
伊坂はよく、「強大な力」をぼんやりと本に埋め込むことが多いですけど、今回はかっちりはめてきましたね~。
さて、伊坂ワールド全開で創造性あふれる世界と、現実をうまく混ぜ合わせている小説となっています。
現実世界にある、おかしな点を、誇張してフィクションの世界に埋め込み、勇気のある主人公を以って訴えかける。
私が伊坂幸太郎を好きな理由の一つです。
今回のモダンタイムスでは「悪者はいない」という結論に至ります。
最終的に主人公の渡辺たちは、諸悪の根源である「ゴッシュ」という会社にたどりつきますが、そこでは普通にパソコンをうち仕事をしている会社員たち、そして受付嬢がいます。
ここで主人公渡辺はこう思うわけです。
世の中は、仕事で出来上がっている。
利益を追求し、効率化を目指したあらゆる仕事が、川のように自分たちの周りを流れている。
私はただ川の氾濫の中で立ち尽くすだけだ。
悪者がいない。そのことははっきりとしていた。
受付嬢の女性をちらっと見やる。自分たちが悪事に加担しているとは自覚していないだろう。ここで彼らが行った作業が直接的に、誰かを痛めつけるわけではない。
何段階もの「仕事のリレー」を経て誰かに危害が及ぶかもしれないというだけだ。
。。。。このやり場のない気持ち!世のはかなさ!
まさに、伊坂ワールドですね。
渡辺の妻が、こういいます。
「仕事であっても、自分のやる事にはそれなりの覚悟が必要で、悪いことをするならもだえ苦しむべきだ。」
妻・佳世子、かっけぇ。
ちなみに、今回この小説では、井坂という小説作家がでてきます。
本人曰く、名前をつけるのが面倒ということだったのですが、小説作家として伝えたいことがあったのではないかな〜と。
「作家の真意は3割しか伝わらない。」と言葉を残しているのだが、
あぁ、小説作家も読者に伝えたい何かがあるんだな、やはり。。なんて思ったり。
「俺はな、小説で世界を変えられると思ってたんだよ、昔はな。」中略「世界を変えるってのは、ただの表現だ。俺が言いたいのは、大勢の人間に何かを行動させるような小説を書きたかったってことだ。」中略「小説はな、一人一人の人間の身体に沁みていくだけだ。」
と、あるように、きっと小説を書いてそこから伝えたいメッセージを込めても、それで人を突き動かし、世界を変えるということは難しい。と伊坂は思っているのではないかと。
でも最後に
「だから考えを変えた。1人くらいに。小説で世界なんて変らんねぇ。逆転の発想だ。届くかも。どこかの誰か、1人。」
と物語のキャラクター、井坂は言い残してます。
改めて、小説家は(少なくとも伊坂幸太郎は)、小説を通して読者に伝えたい何かがあるのだなと感じました。
とくに、こんかいのモダンタイムスという小説では
悪いことっていうのは、別の人にとって良いことだったりする。
何が正しいことなんてあんまりわからない。
(だから、考え抜くべきであり、自分が行うことに責任と正義を持つべきだ)
なんてことを伝えたかったのではないかなと。
チャップリンの映画が多く引用されていて、政治的、社会的にでっかい敵に挑む、平凡な主人公。
なんにせよ、勇気を持って常識を常識と思わずに。
きっと読めば読むほど深みにはまる。
届け!誰か1人に!!!
「終末のフール」 伊坂幸太郎著 ”生き抜くこと”を教えてくれる1冊。
そしてなんとなく昨日読み返した1冊が終末のフール。
この本が教えてくれることは、ずばり「生き抜くこととは」である。
死によって、人は生かされる。
そんなことを考えさせられた本だ。
3年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。
そんな世界に生きる人々を描いた小説。
伊坂氏らしく、一遍一遍異なる主人公が登場し、彼らの人生がふとしたところで交わる、そんな1冊だ。
相変わらず舞台は仙台。
仙台にあるマンションで、残り3年の命を抱え、日常生活を送る人々を描く。
惑星が衝突するにもかかわらず、出産を決意する夫婦や、復讐に生きる兄弟、人生を悔やみ自殺を図る家族、恋人探しの旅に出る少女、キックボクシングを通し、己と戦う少年、大切な人を失った青年、様々な人の家族を演じ切る女性、そしてビデオ屋さんを経営し続ける若者。
この小説の時代より5年前に「8年後に小惑星がぶつかり地球が滅亡する」と通達がなされ、世界はパニック状態となり、日常は崩壊したそうだ。
窃盗を働くもの、殺人を犯すもの、家族とともに命を絶つ人たち。。。
とにかく世界は秩序をなくした。が、そんな世界もようやく落ち着き、小康状態となった時代が、今回の小説の描かれている時代だ。
さて、もし今から8年後に小惑星がぶつかるとなったら、我々はどうなるのだろうか。
この小説の中では、あらゆる人の「生きるとは」が描かれている。
例えば、キックボクサー苗場は、8年後に地球に滅亡すると通達が出されても、毎日キックボクシングのトレーニングを欠かさない。
彼はこう言う。
「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?
あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのですか?」
彼は、自分にできることはキックボクシングで、観客を魅了することしかできない。だからこそ、自分ができることを一生懸命やり続けることにこだわりを持ち、生き抜いている。
また、地球滅亡という事実が出てきたとき、こんな感想を持つ登場人物もいた。
土屋、というある一遍の主人公の友人だ。彼は、リキという子供がおり、そのことも先天性で進行性の病を患っている。土屋夫婦がいなければ生きることが難しい、そんな子供だ。
土屋は、こんな言葉を残している。
「いつも俺たち夫婦がびくびくおびえていることがあるんだ。」「自分たちが死ぬことだよ。」中略「俺たちは年を取るだろ。いくら健康でも、いつかは死ぬじゃないか。で、俺たちが死んだら、リキはどうなる。」中略「小惑星が降ってきて、後3年で終わるんだ。みんな一緒だ。そうだろ?そりゃ怖いぜ。でも、俺たちの不安は消えた。俺たちは多分、リキと死ぬだろ。っつうかさ、みんな一緒だろ。そう思ったら、すげえ楽になった。」中略「最近、俺はすげえ幸せなんだ」
とな。
生きるとは、なんとも壮大で、難しくて、それでいて普段なとなく考えないテーマ。
でも、死と隣り合わせになったとたん、人間は考えるのだろう。
「こんな毎日で良いのか。私の人生、これで良いのか。」と。
生きるとは、本来がむしゃらに答えがない中を必死に自分なりに歩いていくことなのかもですね。
そしてそして、流石伊坂幸太郎氏。
きっと、この本を通して「どんな生き方でも、自分が考え抜いて、これで良いと思えるなら、それが正解である」と伝えたかったんだろうなぁ。
今のように会社人として働くことが、自分にとって幸せなのか。
いつ自分の人生が終わるかわからないからこそ、考えていきたいです。なっ。
もし明日死ぬとしたら、今日の自分は満足して死ねるか。
おい、俺。俺はこんな俺を許すのか。
(キックボクサー苗場、より。)