The Book Life

人生は、旅である!

コンピューターの歴史/ネットワークの仕組み

今日学んだこと

◎コンピュータの歴史

◎ネットワークの仕組み

 ◆ホストコンピューター

 ◆クライアントサーバー

 ◆IPアドレス

 

◎コンピュータの歴史とネットワークの進化◎

コンピューターが出現したころは、

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↑こんな私たちが知っているパソコンのように、キーボードをたたいて入力するわけではなく

真空管を手動で動かし、2進法に変換した計算式をコンピューターに計算させて、そこから計算結果を得ることが、目的だった。(特に戦時中は、ミサイルの弾道の計算などに使われていた。)

しかも、当時は0101(2進法の数字)とプリントされたものをコンピューターに読み込ませて、その結果を印刷!みたいな時代のようだから、驚き。

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だから、今使っているコンピューターの使用用途よりも、ほんとにできることは限られていたのだなぁ。。ただの計算装置だったのかなあ。

それでも、きっと当時の人にとってはものすごく助かるツールだったのだろう。

 

そんな時代から、ちょっとずつではあるが、できることは増えてきた!

 

計算するだけではなく、たとえばワープロのように文字が打てたり。

何かのデータ保存したり。

さらには、だんだんとパソコンの数も増えてくる、とな。

 

そうなってくると、だんだん1台だけで処理(データを保管したり、そこから適切なデータを取り出したり、アプリケーションを起動させたり云々)が大変だ!という風になったのだ。

 

ホストコンピューターという、すべて1台のサーバーで何とかしよう。としていた時代から新たに進化を遂げ始める。

 

その時に出てきた新たな考えが、「LAN」を使用した、クライアントサーバーだ。

※LAN=Local Area Network

 

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自分のPC(クライアント)とサーバーをLANで結ぶ。サーバー側に、データベース(RDB=Relationship Database)が用意されている。これがクライアントサーバー、略してクラサバ☆である。

クライアントサーバーにすることにより、処理速度はホストコンピューターに比べ格段に速くなる。

 

そこから一気に成長を遂げ、ネットワーク(Web)を使用した、Webサーバーなるものが出てきて、3階層C/S(クライアントサーバー)システムが可能となる。

 

3階層C/Sは、①ブラウザとなるクライアントPCが、何か命令を②Webサーバー(Orアプリサーバー)に飛ばし、そのWebサーバーが必要となるデータを③データベースに対して要求し①のクライアントPCに再び届けることだ。

 

このウェブサーバを使用したクラサバができるようになったのは、ネットワークができるようになったから。

すなわちインターネットの出現ですな。

インターネットはIPアドレス、というネット上のアドレスがあるから可能になっているとのこと。

住所検索機能によってインターネット世界は成り立っているんじゃないかな。

そして、そんなネットができたから、メールというツールがどんどん役立つようになり、会社で働く人たちのツールは瞬く間にコンピューターに変わっていった。

 

このクラサバがはやり始めたころは、データセンターブームだったそうな。

 

 

このように進化を遂げ、現在はこの②のwebサーバー以上が、クラウド化されている。というのがトレンドだそう。

 

出ました、クラウド化。最近よく騒がれてるクラウドね。何なのよって、思うんです。ちなみに私はまだよくわかってないです。でもちょっぴり足を踏み込めました、きょう。

例えばですが、

「バーチャルマシン」とか「仮想化」とか、やたらクラウドは「仮想」って言葉が好きだなと思ってたんですよ。

仮想って何だろうって。もやもやとしてたんです。

 

でも、きょう私の講師に言われたのがこちら

 

「実質上」

と考えればよいよ。と。(Virtual=実質)

 

例えば、2005年のノートパソコンを使っていて、2012年ぐらいに、パソコンが壊れたから変えなきゃいけない。

でも、中に入っているOSのWindows2000は使い続けたい。

次買い替えるPCがこのOSに対応しているかわからない・・・

 

という状況が仮にあったとして

 

こんな時に役立ってくれるのが、クラウド君なんだそうな。

クラウドがある事により、ハードウェアの互換性を気にすることなく購入することができるとのこと。(無駄な費用や無駄な労力削減!)
 

ちなみに、クラウドが出現したことにより、人々の生活はがらりと変わったそう。

 

 

ー教室で話を聞くだけの退屈な授業→見て聞いて話して、体験する学びへ

ー写真は額縁で飾るもの→FaceBookなど、ウェブ上にある自分のアルバム、SNSでシェア

ー書面でのやり取り→タブレットやPC上でのやり取り

 

確かにここ5年で私を取り巻く環境は変わっている。

それは、ホストコンピューター→クラサバ→クラウド、のように日々成長しているITシステムが関わっているのだな。

ちなみに、まだこのクラウドの知識が浅はか極まりないので、もう少し勉強します。。。

 

最後に、おまけ。

 

アプリケーションの仕組みを解説。

☆おすすめランチをメールで教えてくれるアプリ☆

(が仮にあったとしたら)

 

アプリの裏がわでは、様々なデータベースを所有する。

*身長、体重*好み*SAT*食事履歴

それらをAPIから持ってこれるデータとあわせる。

→一般的なデータ(例えばBMIや、天気など)

これらを組み合わせることにより、個人好みのおすすめランチを提案できるアプリができるわけだ。(たぶん。)

このアプリをより独自性を持たせたいのならば、Iaas使用で、バーチャルマシンを使って構築、運用すべきだし、他の汎用品(テンプレ)を応用して手間をかけず作りたいのならば、Paasの仕組みを使うべきだ。

 

 

何はともあれ、コンピューターは進化している。

しかし、人は「進化しているコンピューター」にはあまり気にも留めない。

というか、今ある便利な環境はたいていの人には「当たり前の環境」としてしか受け止められないのであろう。

もちろん私も例外ではなく。

 

なぜ、クラウドを使うと便利なのか。RDBがあると良いのか。

過去を以って便利さを語る、とな。

 

ま、知れば知るほどはまる世界。なようです。

 

 

 

 

 

 

モダンタイムス(上)(下)/伊坂幸太郎

大学時代になんとなく手に取った伊坂幸太郎の本。

そこからどっぷりはまり、今では前作読破してしまった私。

 

その中でも特に印象に残り、社会人になり読み返してまたドキドキしてしまった本がこちら。

 

「モダンタイムス」

 

「魔王」という本の続編ですね。魔王から50年経った世界が描かれています。

魔王では、ファシズムvs個人が描かれていましたが・・・

 

この本のテーマは

大きな力(システム)VS個人。

 

どうすることもできない、強大な仕組み(システム)を相手に、翻弄される主人公の話です。

「実家に忘れてきました。

  何を?勇気を。」

こんな文章から始まる、モダンタイムス。

来た来た。伊坂ワールド~!!!と、思わずにはいられない入り方ですね。

 

さて、主人公が生きる世界は、今から100年後の世界。

システムエンジニアの渡辺のもとにとある会社からの案件が舞い込んでくる。

100年後も、システムエンジニアとか、プログラマーって存在しているのですね~。

 

ここから一つのキーとなってくるのが「検索」。

あるキーワードを検索した人たちが次々におかしな事件に巻き込まれ・・・

最後には国家単位の強大な力と対峙する、そんな話です。

 

「政治も経済も、人の気分や善悪も、全部大きなシステムに乗っているだけだ」(モダンタイムス 下)

 

「お前はシステムを設計するシステムエンジニアだ。それに比べて、世の中を覆うシステムには、システムエンジニアが存在しない。誰が作ったものではないんだよ。独裁者はいない。ただ、いつの間にか出来上がったんだ」(モダンタイムス 下)

 

伊坂はよく、「強大な力」をぼんやりと本に埋め込むことが多いですけど、今回はかっちりはめてきましたね~。

 

さて、伊坂ワールド全開で創造性あふれる世界と、現実をうまく混ぜ合わせている小説となっています。

現実世界にある、おかしな点を、誇張してフィクションの世界に埋め込み、勇気のある主人公を以って訴えかける。

私が伊坂幸太郎を好きな理由の一つです。

 

今回のモダンタイムスでは「悪者はいない」という結論に至ります。

最終的に主人公の渡辺たちは、諸悪の根源である「ゴッシュ」という会社にたどりつきますが、そこでは普通にパソコンをうち仕事をしている会社員たち、そして受付嬢がいます。

 

ここで主人公渡辺はこう思うわけです。

 

世の中は、仕事で出来上がっている。

利益を追求し、効率化を目指したあらゆる仕事が、川のように自分たちの周りを流れている。

私はただ川の氾濫の中で立ち尽くすだけだ。

悪者がいない。そのことははっきりとしていた。

受付嬢の女性をちらっと見やる。自分たちが悪事に加担しているとは自覚していないだろう。ここで彼らが行った作業が直接的に、誰かを痛めつけるわけではない。

何段階もの「仕事のリレー」を経て誰かに危害が及ぶかもしれないというだけだ。

 

 

。。。。このやり場のない気持ち!世のはかなさ!

まさに、伊坂ワールドですね。

渡辺の妻が、こういいます。

 

「仕事であっても、自分のやる事にはそれなりの覚悟が必要で、悪いことをするならもだえ苦しむべきだ。」

 

妻・佳世子、かっけぇ。

 

ちなみに、今回この小説では、井坂という小説作家がでてきます。

本人曰く、名前をつけるのが面倒ということだったのですが、小説作家として伝えたいことがあったのではないかな〜と。

 

「作家の真意は3割しか伝わらない。」と言葉を残しているのだが、

あぁ、小説作家も読者に伝えたい何かがあるんだな、やはり。。なんて思ったり。

 

「俺はな、小説で世界を変えられると思ってたんだよ、昔はな。」中略「世界を変えるってのは、ただの表現だ。俺が言いたいのは、大勢の人間に何かを行動させるような小説を書きたかったってことだ。」中略「小説はな、一人一人の人間の身体に沁みていくだけだ。」

 

と、あるように、きっと小説を書いてそこから伝えたいメッセージを込めても、それで人を突き動かし、世界を変えるということは難しい。と伊坂は思っているのではないかと。

 

でも最後に

 

「だから考えを変えた。1人くらいに。小説で世界なんて変らんねぇ。逆転の発想だ。届くかも。どこかの誰か、1人。」

 

と物語のキャラクター、井坂は言い残してます。

 

改めて、小説家は(少なくとも伊坂幸太郎は)、小説を通して読者に伝えたい何かがあるのだなと感じました。

 

とくに、こんかいのモダンタイムスという小説では

 

悪いことっていうのは、別の人にとって良いことだったりする。

何が正しいことなんてあんまりわからない。

(だから、考え抜くべきであり、自分が行うことに責任と正義を持つべきだ)

 

なんてことを伝えたかったのではないかなと。

 

チャップリンの映画が多く引用されていて、政治的、社会的にでっかい敵に挑む、平凡な主人公。

 

なんにせよ、勇気を持って常識を常識と思わずに。

 

きっと読めば読むほど深みにはまる。

それが伊坂幸太郎のモダンタイムスです。

 

届け!誰か1人に!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「終末のフール」 伊坂幸太郎著 ”生き抜くこと”を教えてくれる1冊。

そしてなんとなく昨日読み返した1冊が終末のフール。

この本が教えてくれることは、ずばり「生き抜くこととは」である。

 

死によって、人は生かされる。

そんなことを考えさせられた本だ。

 

3年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。

そんな世界に生きる人々を描いた小説。

伊坂氏らしく、一遍一遍異なる主人公が登場し、彼らの人生がふとしたところで交わる、そんな1冊だ。

相変わらず舞台は仙台。

仙台にあるマンションで、残り3年の命を抱え、日常生活を送る人々を描く。

 

惑星が衝突するにもかかわらず、出産を決意する夫婦や、復讐に生きる兄弟、人生を悔やみ自殺を図る家族、恋人探しの旅に出る少女、キックボクシングを通し、己と戦う少年、大切な人を失った青年、様々な人の家族を演じ切る女性、そしてビデオ屋さんを経営し続ける若者。

 

この小説の時代より5年前に「8年後に小惑星がぶつかり地球が滅亡する」と通達がなされ、世界はパニック状態となり、日常は崩壊したそうだ。

窃盗を働くもの、殺人を犯すもの、家族とともに命を絶つ人たち。。。

とにかく世界は秩序をなくした。が、そんな世界もようやく落ち着き、小康状態となった時代が、今回の小説の描かれている時代だ。

 

さて、もし今から8年後に小惑星がぶつかるとなったら、我々はどうなるのだろうか。

 

この小説の中では、あらゆる人の「生きるとは」が描かれている。

 

例えば、キックボクサー苗場は、8年後に地球に滅亡すると通達が出されても、毎日キックボクシングのトレーニングを欠かさない。

彼はこう言う。

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?

 あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのですか?」

彼は、自分にできることはキックボクシングで、観客を魅了することしかできない。だからこそ、自分ができることを一生懸命やり続けることにこだわりを持ち、生き抜いている。

 

また、地球滅亡という事実が出てきたとき、こんな感想を持つ登場人物もいた。

土屋、というある一遍の主人公の友人だ。彼は、リキという子供がおり、そのことも先天性で進行性の病を患っている。土屋夫婦がいなければ生きることが難しい、そんな子供だ。

土屋は、こんな言葉を残している。

「いつも俺たち夫婦がびくびくおびえていることがあるんだ。」「自分たちが死ぬことだよ。」中略「俺たちは年を取るだろ。いくら健康でも、いつかは死ぬじゃないか。で、俺たちが死んだら、リキはどうなる。」中略「小惑星が降ってきて、後3年で終わるんだ。みんな一緒だ。そうだろ?そりゃ怖いぜ。でも、俺たちの不安は消えた。俺たちは多分、リキと死ぬだろ。っつうかさ、みんな一緒だろ。そう思ったら、すげえ楽になった。」中略「最近、俺はすげえ幸せなんだ」

 

とな。

 

生きるとは、なんとも壮大で、難しくて、それでいて普段なとなく考えないテーマ。

でも、死と隣り合わせになったとたん、人間は考えるのだろう。

「こんな毎日で良いのか。私の人生、これで良いのか。」と。

 

生きるとは、本来がむしゃらに答えがない中を必死に自分なりに歩いていくことなのかもですね。

 

そしてそして、流石伊坂幸太郎氏。

きっと、この本を通して「どんな生き方でも、自分が考え抜いて、これで良いと思えるなら、それが正解である」と伝えたかったんだろうなぁ。

 

今のように会社人として働くことが、自分にとって幸せなのか。

いつ自分の人生が終わるかわからないからこそ、考えていきたいです。なっ。

もし明日死ぬとしたら、今日の自分は満足して死ねるか。

 

おい、俺。俺はこんな俺を許すのか。

(キックボクサー苗場、より。)